Tokyp'sCupのレース実行役員に加わる事になった。
その会議が帝国ホテルの会議室で行われた。
今年は第20回の記念レース。多くの方にレースに参加して頂こうとロゴやイメージカラーを統一してWebなども活用して広く告知する事になった。
そんな折、このレースで授与される「東京都知事杯」の大先輩のある記事を目にした。
ヨットマンとしていたく感動する内容で、Tokyo'sCupが何故必要かよく分かった気がした。
長文だが是非読んで頂きたい。
石原慎太郎 仮装と虚妄の青春
2011.2.7 03:02
最近ただの海での船遊びではどうにも飽き足らずオーシャンレースに復帰したが、以前と異なって意に染まぬことが多い。何より島から島を回る、いわゆる島レースが少なくなってしまい、近くの海でマークを打ってのデイレースがほとんどになってしまった。
かつて日本外洋帆走協会で理事をしていた頃創設した沖縄から本土への、あるいは私が会長になって始めた小笠原からの長距離レースは参加艇が皆無で実施出来ない。数年前久し振りに沖縄レースへのエントリーが三艇あると聞いて、私もぼろ船を駆って出場しようとしていたら他艇はすべてキャンセルとなってしまった。訳を質してみたら全て若いクルーが集まらぬということ。天候にもよるがあの難所続きのトカラ列島で時化に出会ったら、最年少六十歳のクルーではとてもフォアデッキの仕事は務まらない。
日本の近海は世界でも最も変化の激しい故にも危険な海だが、故にもつきせぬ魅力がある。島によって突然変わる風向き、島周辺の激しい海流等々、いくら測量計器がすすんでも人間には不可知な自然の変化は、いくら計算しつくしてみてもそんな条理も所詮自然には通用しないということを知らしめてくれる。それは人生への自覚にも通じる得がたい教訓ともなるのに、若い連中はそれを嫌う。
オリンピックの招致に奔走している間、IOCのロゲ会長と何度か懇談したが彼もまたオーシャンレーサーで、日本のクルー事情について話したら、ヨーロッパもまた同じ悩みを抱えていると。どうしてこんなことになったのだろうかと慨嘆したら彼が、それは三つのスクリーンのせいだよといったものだった。曰くに携帯電話、パーソナルコンピューター、そしてテレビのもたらした害悪だと。ケイタイとパソコンは最も現代的、最も便利な文明の所産だが、それがその便宜性の故にそれを作り出した人間たちの生活を大きく規制していることは否めない。ある意味では人間の資質を大きく変えつつもある。文明の所産が人間の資質に影響を与えているということに当の人間たちが鈍感なことを、社会心理学者はカルチュラルラグ(文化遅滞)というが、それは下手をすると社会崩壊にも通じかねないとも。
ケイタイやパソコンがもたらす過大な情報は、果たして個々人にとっての必要量なのだろうか。若者たちは貪欲にそれを摂取しているとしても、その分析や評価をはたして自分自身が行い得ているのだろうか。ケイタイがもたらす広範囲の他との接触が、果たして人間同士の本当の連帯になり得るのだろうか。
◇
情報の分析や評価を結局また情報にまかせてしまうなら、それらの情報は身体性を付与されているとはいえず真の教養とはなり得まい。真の教養にもなり得ぬ情報への埋没は結局知識の虚妄でしかなく、教養や引いては体験の幻覚をしか育てはしない。それは結局メディア・リテラシーの問題なのだが、それへの反省は一向に見られないが、当節の若者の何とはない自信の無さは実はそれを暗示しているのかも知れない。
いい換えれば彼等の実体験の乏しさであって、情報の作る虚妄にすがって勘違いや思い違いを恐れて避け、挫折を体験しないで過ごそうとする生きざまは結局ひ弱な人間をしか作りはしない。
ヨットのレースにかまけていえば、現代の先端技術に依る諸々の機器を駆使しヨットをいかに合理的に走らせているつもりでも、そんなやり口は外の荒海の時化の中では通用せずすっ飛んでしまうのに、機器にかまけて彼等は海を熟知し海をこなしていると自惚(うぬぼ)れかねないが、それはただの虚妄でしかありはしない。
昨年の夏の一番のにぎわいの五ケ所湾からのレースでそれをつぶさに体験させられた。酷暑の中微風の遠州灘で沖合で行き来し変化する潮の流れや微妙な風の動きを、私自身は一向に無知ないろいろな計器で計って気にし、彼方の陸地には巨(おお)きな積乱雲が立ち上がっていて、それが陸地の高い気温を証しているのに気配りせず、陸に近づけば当然水温と陸の気温との差の間に風が起きるという大気の大きな動きの原理に気づかずかたくなに沖のコースに固執して試合に敗れるという有様は、パソコンの与える情報に縛られ身動き出来ずに、下界で通用せぬ若者を表象していたと思う。
思い違い、勘違いは青春の特性であって、それこそが青春をふくらませ彩ってくるのに、それを恐れて激しい恋愛もせず、身のほどを心得すぎて飛躍もせず、他者との横並びに安住する若者には将来の人生が開けるはずはないし、そうした若者ばかりの社会にも未来は開けはしない。人生にはハザードが満ち満ちているのに、それを超えるという危険を試みない若者たちに新しい発想も浮かばず、新しい獲得もありはしまい。
これだけ膾炙(かいしゃ)した文明の便宜性を遮断するなどということは不可能に違いないが、便宜な文明が与える情報による仮装と虚妄から未来ある若者たちを解放し、彼等の知識や体験に身体性を付与するために、我々は何をしなくてはならぬかを本気で考えなくてはなるまい。
# by teamstella | 2011-02-14 06:00 | レース